■千夜一夜物語_パラレルエロ02


<シェヘラ プチ脱走篇>


召されて、幾つかの夜を経た。
証立ての際の王の執拗さは夜を追うごとに酷くなり、少女を苛んだ。

ただ、その残酷な遊戯のあいだ、時折王の目がひどく真剣に少女を見つめる瞬間がある。
シェヘラザードはそれに気付かない。
自らの淫蕩を責められ、嘲笑されて、最後は放り出されて、寝入る王の褥から抜け出し…
自らにあてがわれた居室へと戻る。

夜伽の物語など、ひとことも話してはいない。

こんなはずではなかった…でも。
だとしたら、どんなはずだったというのだろう?

私はあの人に、何をしたくて…

お会いして、ただ、お会いしたくて。
心を込めてお仕えして………そして。

あの人の、どこか歪に凍り付いてしまったような心を、お慰めする事が出来ればと。

浅はかだったのかもしれない…。

シェヘラザードは、しんとして思う。
女の体を持つ以上、あの人に赦される事はないのかもしれない。
ことにいま、この瞬間も、王の手の感触を忘れかねて身を滾らせている自分には。

シェヘラザードは、甘い息をついて、体を起こした。
ここからでは、王の褥に…近すぎる。
夜伽の語り部という名目で召されたとはいえ、周囲にとってシェヘラザードは
その出自の確かさからも、容貌、ふるまい、全てにおいて申し分のない、事実上の妃であった。
何よりも、王の褥に召されて、二日目の朝を迎えた娘ははじめの王妃以来で、
婚礼の次の日、少女が王にともなわれ姿をあらわして以降、
王宮にはひそかに驚愕と、歓迎と、これで国中が落ち着くという家臣一同、
召使から老人たちに至るまでの安堵とが席巻した。
…勿論かれらは王と少女がかわしているひそやかな賭けには気付いていない。

居室は王の部屋とつづきの、王妃の部屋として設えた処をあてがわれており、
王の呼び声にはすぐに対応できるよう、いつも側近くいられるよう、準備されている。
だから…夜は困った。

シェヘラザードは、そっと部屋を抜け出した。
降るような星空が美しかった。
庭園に降り、絹擦れの音もしとやかに夜の中を歩く。
周囲を砂漠に覆われた中、贅沢にしつらえられた木々の間を抜け、瀟洒な東屋に滑り込むと、
彼女はようやく落ち着いたようにため息をもらした。

そっと、周囲をたしかめるように小さな頭をめぐらせて、誰もいないことを確認する。
美麗なモザイクの施された柱にもたれかかると、彼女は自らの裾を遠慮がちに引き上げて、
恥じらいながら、ふるえる指でおのれをまさぐった。

こんなことを覚えてしまったのも、ここに来てからだった。

王が触れた指の動きをなぞり、滾ってしまった体を慰める。
今日はこんなふうに…こうして………そして。

たわいない少女の体には、すぐに待ち焦がれていた絶頂がやってくる。

(シャーリアールさま………)

声にならない呼び声。決して呼ばわってはならない名前。
少女は、終わりにはいつも泣いてしまった。
罪悪感と、恥ずかしさ、自分に頼むところのなさがなさけなくて…消え入ってしまいたかった。

こんなところを王が見たら、何と言っていじめられるだろう。
快感の果てがあることなんて、それだって知らなかったのに。

(帰りたい……)

ふとはじめて、シェヘラザードの中にその思いが湧いてきた。

(おとうさま、おかあさま……)

シェヘラザードはまだ本当に少女だった。
男女の睦事など何も知らない乙女のまま、恋にその身をさらして…。
王の玩びものになるにはあまりにも無垢なまま。

ふらり、と東屋を出る。足が向いたのは、あてがわれた王妃の部屋とは反対の方角だった。

そのままいけばどこに出る…という意識もなく…
ただ、今この時だけは、王の元に戻る事は出来ない心境だった。

どれくらい歩いただろう…シェヘラザードの眼前に、赤く燃えるほのおの影がゆらめいた。

(……あ  )

厳しい声で誰何する、門番のすがた。
いつのまにか、後宮の門まで歩いたらしい。

門番たちは、一目見て高貴な婦人であるところのシェヘラザードの姿を見て、その場に平伏した。
同時に、後宮の住人がこんなところまで出てくる異常事態に緊張をしている。
彼らは、外からの侵入者を阻む役目もさりながら、
特には女奴隷などの内からの逃亡者にも備えている者たちだった。
互いに見交わし、そっと立ち上がる。

「ただならぬお人とお見うけいたします、このような刻限にこのような場所に何故」

屈強な兵士に行く手をさえぎられて、シェヘラザードは震えた。
すがるように、兵士たちを見上げ、涙に溜めた目で哀願する。

「………ここから…出してくださいませんか…………」

兵士たちに動揺が走る。

「……おねがいします……ここから…かえして……」

ぽろぽろと涙がこぼれる。
ただならぬ美形に、ただならぬ物腰、貴族の娘ならもっと居丈高なものを、
たよりなくしなだれかかるような弱々しいようすに、みな心を衝かれたように固まる。
…と同時に、いまこの後宮に、こうした存在として住まう貴婦人がただ一人しかいないことに、
隊長とおぼしき年配の男が気付いた。
思わず青ざめる。

「…し、 ――――――――シェヘラザード…さま?」

ぴくん、と少女がふるえた。
兵士たちがぎょっと隊長をふりかえる。

「……い、いけません、すぐに、すぐにお戻りを 」

慌てた様子で兵士たちが右往左往をはじめた。

「王にこのことが伝わりましたら御身が無事ではすまされません、どうかお戻りを」

シェヘラザードは、悲しそうに兵士たちをみつめる。
隊長は許しを請うように言った。

「貴女様が我々のまえにお出ましになったと知れた時、そのお姿を見た我々も無事ではおられません、
どうか、どうかお慈悲を…」

シェヘラザードは隊長の言葉にはっと自分を取り戻した。
自分は、なにを…と、そっと周りを見渡す。
熱に浮かされたように、出てきてしまった…。
さっと青ざめる。


「…既に、無事ではおられぬが 」

背後の闇から、嗤いを含んだ声がひびいた。
兵士たちはそちらを見、口をあき、あるものは悲鳴をあげ、あるものはあわあわと口をわななかせ、
再びばたばたと平伏した。今度は地に額を擦り付けるように、顔を上げるものはひとりもいなかった。

振り返ったシェヘラザードに、腕を組んで立つ王の美丈夫な姿がうつる。

(いつから……どうして……―――――――――)

わっとおしよせる思いに、めまいがした。
王は静かに歩み寄ってくると、手近にいた兵士のひとりをいつのまに抜いたかわからない大刀で
一刀の元、切り捨てた。
兵士たちのあいだに恐慌が沸き起こる。

シェヘラザードは悲鳴を飲み込んだ。

王はシェヘラザードの前に立ち、悪魔のような目で覗き込み、片頬をあげて嘲笑った。
それで、王はぜんぶを知っている、ということが少女に知れた。
さいしょから、ぜんぶ。
それにしても、嗤いをはりつけたような美貌の奥、目の奥の奥に、
すさまじい不快と怒りが渦巻いているように見えるのが怖かった。

「おまえのせいだぞ…?」

王はいっそやさしく見えるような仕草で手を伸ばすと、
指についた兵士の血を、シェヘラザードの頬に、そっと擦り付けた。

王が、踵を返して兵士たちに向き直る。
赦しを乞う声、震える…。
明確な殺戮の意思に、シェヘラザードは一瞬からだを震わせて…力を振り絞って駆け寄り、王に抱きついた。
目の端に、はじめてみる人の死骸…さっきまで生きて動いていた人の、血溜まりのなかにくずおれた…死骸。
吐いてしまいそうだった。

「いけません、わたくしがわるうございました、王、お慈悲を…っ」

必死に押しとどめようとしがみつくのに、王がゆっくりと肩越しにふりかえる。

「いかにも、悪いのはおまえだ。この者たちの咎はおまえが成さしめた」

冷酷なひとみ、残酷な王者の傲慢。泣きそうになった。

「はい、ですから、どうぞ咎はわたくしに…わたくしだけの身に。なんでもいたします、
どのようなことでもいたします、ですから……どうか彼らを…ころさないで………!」

王は、かすかに唇を尖らせた。
折角の殺戮の機会を邪魔されたことを不興がるようにも、
何のゆかりもない兵士たちの命乞いを身を挺して行う娘を面白がるようにも。

「…なんでも、どのようなことでも……?」

本当に?

「はい…、はい、 ですから、どうか……どうか」

必死にしがみつく少女の非力さ。
ふと思いついた残酷なお仕置きに、血に飢えた高ぶりがスライドしていくような感覚を覚えた。

「わかった……ではおまえにおまえ自身の罪と、彼らの罪を合わせて贖わせよう。」

ほっと力を抜いた少女の目が、緊張からほどけるのを見て、
その顎を掴みあげる。

「…安心するのは……まだ早いぞ……?」

鮮やかな微笑と酷薄な声音に、シェヘラザードだけでなく、兵士たちの血の気もひいた。
身を挺して、自分たちを守ろうという王妃に、残酷な刑罰が与えられる、と思うと、
隊長の心が激しく痛み、彼は思わず立ち上がり、震える声で王をよばわった。

胡乱そうに王が振り返る。

「お恐れながら、我々の罪はお妃さまのお姿をまのあたりにしたことと存じます……」

隊長は、ふるえながら必死の形相でいいつのった。

「その通りだ、余の妃は、そなたら下賎の輩が目にして良いものではない」

王が鷹揚に頷く。

「…ですから、それは、わたくしが…っ」

シェヘラザードは悲しく叫んだ。

「であれば」

初老の隊長は、手にした短刀で、言葉と同時に自分の両目を抉り取った。
血がしぶく。シェヘラザードの悲鳴。王はわずかに目を細めただけだった。

「…数ならぬ身のものではございますが、私のこの両目にかけて、
お妃さまのお罪を少しくはご容赦を…何卒」

切れ切れに言って、うめきをもらし、その場にうずくまる。
周囲の兵士が隊長をかばうように這いよった。
シェヘラザードが泣き出す。

王は、少女をひょいと抱え上げ、兵士たちに一瞥を加えると、興味を失ったように背を向けた。


(ごめんなさい…ごめんなさい――――――――――――――)


夜の中、少女の嗚咽だけがいつまでも、響いた。



 
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