無限抱擁03■蓮
視点


自分の部屋の寝室の床に手足を投げ出すように座り込み、手にしたグラスの中身をあおる。

自分のしたことが、信じられない……とは言うまい。
俺はもう随分前から、こういう事態になる妄想を繰り返してきたのだ。


(そーいえば、蓮、おまえ明日までソッチなんだったよなぁ…?)


きっかけは、俺が地方のロケ先から、事務所にかけた電話に、椹さんが出た事。
用事を済ませた俺に、彼がそう問い掛けた事だった。


(ええ、スケジュール的にはとりあえず明日いっぱいこちらにいます)


撮りはほとんど終わっているけれど…と頭の隅で考えると、椹さんがクスクスと笑った。


(いや、さっき最上さんに仕事の依頼した時に聞かれてね…。おまえたちってほんとに仲がいいんだなあ)


ピクリ…と何かが神経に障った。
ふたりとも携帯番号知ってる同士なんだから直接教えておいてやればいいのに、だの、
出会った頃のおまえたちから見てると今の友好関係は感慨深い、だの、
ひとしきりほほえましそうに話す椹さんの声が、耳を素通りしていった。
なぜなら、瞬間的に、何故あの子が俺のスケジュールを確認したのか、はっきりと分かったからだ。


(…避けられている………―――――)


俺が、事務所に来れない日であるかどうかを、あの子が確認した……。

あの子が、俺に、会いたくないと。

あの子が、俺と…。


………―――――次第に目が据わってくるような気がした。


誰にとも、何にともつかない苛立ち………凶悪な思い。
いや…そうじゃない、俺は、あの時……。
あきらかに、あの子に対して激しく苛立ったのだ。

軽井沢で自分があの子にしたことを棚に上げて。
俺を避けるあの子に腹をたてて。

……そして―――――。


(敦賀さん……―――――)


俺の名を呼びながら、泣くあの子を、思うままに犯した。
あんなに泣いていたのに、苦しんでいたのに、痛がって………叫んで。

……駄目だ。あんなに残酷なことをしたのに、俺の体は、それを後悔していない。
文字通り、狂ったようにあの子を貪った。
頭の芯から快感で溶けてしまいそうだった。
自分がそんなに淫蕩だとは、俺は今の今まで知らなかった。むしろ淡白だとさえ思っていた。なのに…。
……思い返せば、いまだに体が昂ぶってしまう。

人として…男として、恥ずかしすぎる。

気持ちだけが取り残されて……。

全てが終わったあとの、あの子の酷い有様。
はじめての行為に酷使された部分の裂傷と…。太腿を汚す、血液混じりの白濁した液体。
俺の体液と…あの子の血が混じった…凌辱のあかし。
それを見て自分があの子をどれだけ激しく犯してしまったのかはじめて認識し、俺の頭は急速に冷えた。
意識を失っているのに、ショックのためか小刻みに震える体を抱きしめて…。

………どうして、そんなことが出来たんだ、敦賀蓮。
あの子に。あんな子に。 
久遠ヒズリ。おまえはあの子の、幼い日の、妖精の国の王子様じゃなかったのか。

(愛しすぎて、いっそ憎かった…)

(欺瞞だ)

俺は、分かっている。行為そのものについて、反省や後悔を、しているわけではないんだろう。
それをしていたら、こんなに、いますぐにでもあの子に会いたいなんて、思えるわけがない。
声が聞きたい。会いたい………… 苦しい。 

…甘い夢を見た。
絡み合う視線の甘さ。触れ合う体と、あの子とひとつになった部分から溶け出していきそうな快感と。
あの子の甘い喘ぎ…俺の動きに合わせて、揺れる細い腰。
どうして、それで、あんなことをしておいて、でも、あの一瞬、あの子が俺を受け入れたなんて…思えたのだろう。

手痛いしっぺ返しはすぐにやってきた。
俺のベッドの上で気が付いたあの子の、俺を見る拒絶と嫌悪に満ちた目…。

外に出て、ふらつく体を支えようと手を伸ばした俺の頬を…思い切り叩いた、小さな手。
思わずといったように、うろたえて、でもその手がまるで汚いものに触れたかのように
彼女自身の服で拭われた時… 俺は……頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
あれは、本当に堪えた。

それでも俺は、あの子をそのまま、連れ去りたかった。
この部屋から出さずに、ずっと…。
嫌われても、それでも……。

わからない………本当に?

あの子に触れるたび、あの子が俺を見て吐き気を催す、そんな姿を見ても、
俺は……あの子の傍にいられるのか…?

それでも…―――――それでも。


( ………会いたい………)


答えは、すぐに出る。
だから俺は思う………。
俺は、あの子にそんな目で見られる自分になってしまった事を、悔やんでいるのであって。

あの子にしたことを、申し訳ないと… 思えているわけではないのだと。

最悪だ。

グラスに酒を注いで、一息に呷る。何杯飲んでも酔えはしない…そんな事はわかっていた。
けれど、飲まずにはいられなかった。


*****


社さんも、椹さんも、その日からしばらくは俺と目を合わそうとしなかった。
いや、俺自身が、彼らに顔向けができなかった…というのが実際かもしれない。
社さんは気遣わしげに俺をうかがい、椹さんは……俺に激しく怒っているようだった。
仕方がない、俺は彼の信頼を正面から裏切ったのだ。

「…なんだかんだいって、椹さんはLMEの中でキョーコちゃんの保護者みたいなもんだし、
確か、娘さんがいるから…仕方ないかもしれないな…」

社さんは、辛そうに眉間をゆがめて、俺を見た。
車の中、二人だけの移動中。

「…なんでそんなことになったんだ、蓮。 俺…おまえにそんな事させたくて、
あの子のことけしかけてたわけじゃないぞ…」

本当に申し訳ないという思いと、
何がどうでも良いような自暴自棄な思いが、俺を押し黙らせた。

傍目には、酷くふてぶてしく見えるだろう俺の内面が、こんなに揺れているなんて、誰が気づくだろう。

「……蓮 」

助手席からじっと俺を見つめる、社さんの視線。
俺は半ば意地になったように、前を見つめていた。

「……………―――――」

「…いや…―――――」

社さんは、静かなため息をついた。

「……すまない、俺にだって責任があるんだ…おまえの気持ちを考えもしないで、煽るだけ煽って…」

前を向き直って、メガネを外し、こめかみを指で抑える。
そうして、メガネをかけ直すと、彼はもう一度俺を見て、言った。

「無責任だった…ごめんよ、蓮……」

俺はふと、泣きたいような気分になった。
この人は、俺に…やさしすぎる。
感情の触れ幅が大きくなりすぎて、自分で自分をもてあます俺に、彼はむしろ残酷だった。


「…社さん……、俺―――――」


「……うん―――――?」


かすれた声が出た。


「………あの子が、好きなんです―――――」


するり、と言葉が滑り出て行く。前だけを見て。じっと。まばたきもせず。


「好きで、好きで…気が付いたら、こんなに……」


「………」


「―――――すみません………」


胸が痛む。


「……知ってたよ …」


社さんの声がやさしいからだ。俺はいま、あきらかに彼に甘えている。


「……おまえはさ…あの子が初恋、なんだろう……?」


うなづく。
こんな、体も心も焦げるような思いを、あの子以外の人間に抱いたことはない。
これが恋なら、恋とはなんて厄介で…忌々しいものなんだろう。


「………そんなに、焦らなくてよかったんだよ…」


一緒に歩いて、そっとよりそって、機が熟すのを待って、言葉からはじめて、手をつないで、ゆっくりと…
ひとつひとつ、階段を上るように距離を縮めて。
社さんは、ぽつぽつと呟いた。


でも、俺は…あの子の中ではどれほどの存在でもないんです…。
心の大部分を占めているのは、不破で…、だから俺は。


「…おまえは本当にこの件に関しては、中学生並だなぁ……」


社さんは呆れたように、仕方ない弟を見るように、笑った。


「いっそ、そんな容姿風貌なだけに性質が悪いよなぁ…。」

遠慮がちに、からかうように。

いいか、蓮。復讐心や執着は、強い感情だけれど、それはね。
男と女が、気持ちを寄せ合って、ふたりで育んでいくような、そういう慈しみとは全く違ったもので。
あの子がおとなになれば、あの子ならきっとそういう事は自然にわかっていくはずで。
だから…。

「今のおまえが、焦る必要なんか無かったんだ。あの子、あんなだけど…その中で、一番異性に近いのは…
おまえだったんだから」

社さんの言葉は、俺にはよくわからなかった。
いや、正直に言えばその言葉は希望的観測にすぎるような気がして、受け取るのが怖かった…のかもしれない。
そういうと、社さんはまた笑った。

世紀の恋愛音痴思春期男、敦賀蓮の初恋を本人が気づかないうちに中てた俺のいう事が信じられませんか? と。

……それを言われると言葉も無い。
だけど、胸奥にわだかまる、ヘドロのような思い…。
あんなに酷い事をしておきながら、反省や後悔が出来ていない自分。
そんな俺には、彼のいう事を受け止めるのすら辛い。


「……………反省も、後悔も、おまえは今、すごくしてるじゃないか―――――」


驚いた。俺は今、言葉に…出していただろうか…?


「わかるよ、そんな黒い顔してりゃ…」


動揺がさざなみのように心を揺らす。
俺は、車を静かに路肩につけて、停車させた。


「自分の行為を恥じて、後悔していたら、あの子に二度と顔向けできないのが本当でしょう。
…というか、会うべきじゃない……。あの子が俺を見てどんなに苦しむか、そのくらいはわかるんです。
でも俺は……―――――あんな事をしておいて、それでも、今も、この瞬間も、あの子に会いたいんです。」

もっと即物的な問題だってある。
本当に後悔していたら、こんなふうに思い返して体を熱くする事だってないだろう。なのに。


「…………苦しんでるじゃないか」


社さんはぽつりと言った。


「ジレンマなんだろ…?俺には、そこまでの強い感情はわからないけど、おまえが今、すごく苦しんでるのはわかるよ
……会いたい気持ちだって本当だろう、それが恋だろう?……でも」

「……傷つけてしまったことを、自分がしたことを、死ぬほど後悔して、苦しんでる自分にも気づいてやれよ」

「…全部おまえの本音だと思うよ。人の気持ちなんてそんな、きれいにわりきれるようなもんじゃない。
矛盾してて、相反してて、整合性なんかなくて、対立して………自分の感情どうしが憎みあったりもする。でもさ」


社さんは思いやりのこもった透明な目で俺を見た。


「それが今のおまえなんだからさ………?」


俺は、彼の静かに整った顔を、はじめて見る人のような思いにとらわれて見つめ返した。


「………」


俺の中の、たくさんの俺。
引き裂いてしまいたいような自分への怒り。
言い訳と………


(………後悔……している……―――――?)


俺が…あの子にしたことを…ちゃんと後悔、できている……?


―――――。


慈しみたかった、ただ、愛したかった。
宝物のように大事にして、微笑ませて、いつもあの子が笑顔でいられるように…。

隠れていた感情が解き放たれて、奔流のように湧き上がり、俺を押し流していく。


ずっと前に手に入れていた、かけがえの無い小さな魔法……。
泣かせたくなんかなかった、あの子の笑顔が続くなら……。

空だって飛んであげたかった。


遠い日の幻影。俺の中の少年が、心の隅のほうから俺を咎めるような目で見ている。
誰よりも何よりも自分を恨み、憎み、怒り、
身勝手な自分を罵り、あの子を傷つけた自分を殺したいほど憤っている………。


( 俺自身―――――)


じっと手を見る。


「………自分と、喧嘩したって駄目だよ、蓮 」

「そんなもの、なんにもならない。ただ、どんどんドツボに嵌って、めちゃめちゃになってくだけだ。
おまえは今まで多分…自分の声を聞かなさすぎたから…」

「おまえ自身がおまえに怒って、こんなふうにどんどんわかんなくなっちゃったんじゃないか―――――」


( 自分の事は自分が一番よくわからない……… )


心の中に、しん、とした物思いがある。
強い衝動に踏みにじられたもう一人の俺。矛盾して、対立して、融合して、相反して、
相互いにつながりあうものが確かに存在する…。

でもそれは全て…


(俺自身―――――)


ゆっくりと手のひらを握りこむ。


俺は…酷く間違ってしまって……… もう、それはとりかえせないのかもしれないけれど。


あの子の目を思い出す。汚いものを見るような…あの、悲しい目を。
それでも、俺は…………

 
俺は―――――。


( 会いたい… )


胸の奥の奥、全部取り払ったどんづまりにあるたった一個の思いが……それだ。


( そう……か―――――)




「………椹さんに、一度きちんとお詫びと…話をしておきたいんですが…時間はとれそうですか?」

言うと、社さんは片眉をあげて、ふっと笑った。
近々の、俺のスケジュール自体は頭に入っているのだろう、ふと遠くを見る目になって、
問題ないと判断したのか、ひとつ頷く。

「何発かは覚悟しないといけないかもな。まぁ、でも………」

いたずらそうに続ける。

「…キョーコちゃんの下宿先の旦那さんに会いに行くよりかは随分マシだと思うよ」

…それは確かにそうかもしれない。
うなづいて苦笑すると、社さんは少しだけ安心したように目を細めた。


個人的には、あの強面の親父さんにボロボロになるまでぶん殴ってもらいたくはあったが…。
そんな資格も、価値も、今の俺にはないだろう…。


今夜、電話をかけよう。


あの子に……。会いたいと。


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