虜_01
パラレル
パロ
■ 小悪魔キョーコ視点
おなかがすいた…………――――――――――――。
この世に生まれ出でて、56億7千万とんで二日。
一度だってお腹がいっぱいになったことがない。
生まれたところを遠く離れて今ここ千駄ヶ谷(せんだがだに)に辿り着き、
仮の住いである城壁の廃墟にうつぶせていると、
明日には消えてなくなれるのではないかという淡い期待が湧いてきた。
最上キョーコ(56億7千略歳)下級悪魔。
自分の能力を使ったことはないけれど、所謂一つの淫魔(サキュバス(succubus)) …らしい。
友達は、ひとり。
悪魔界での立身出世を目指し、人間の魂を集めるため放浪の旅に出ているモー子さん(夢魔)
たまに思い出したように、彼女から魔女の宅急便で新鮮な人間の魂が届くことがある。
万年飢餓状態の私を見るに見かねてなんだろう…ぶっきらぼうだけど、
本当はとてもやさしい人…じゃない 『悪魔さん』だ。
淫魔であるわたしにとって、人間の魂はそれほど栄養価の高い食べ物ではないけれど、
生まれてこの方食事らしい食事を摂ったことがない私が、まがりなりにもこうして存在していられるのは、
大部分、彼女に拠るところが大きいのじゃないかと思ったりもしている。
私は、自分が悪魔であるということが悲しかった。
人様の不幸や涙、魂や慟哭、呪詛なんていらない。
いわんやしたたる血肉をや。
繰り返されるワルプルギスの夜。サバトの饗宴にも興味はなかった。
むしろ……―――――――――。
空をふりあおぐ。蒼穹はどこまでも高く、雲が白い陰影を流す。
嗚呼、なんてきれいなんだろう。
時折その空をふわりと横切っていく美しい種族の……天使族のみなさんと、
地にあって火・水・土・木のエレメントの構成をになう、妖精族のみなさんと。
………私は、かれらとおなじに生まれたかった。
( ひどいです…神様…)
『 あんたねえっ 』 モー子さんの怒鳴り声の幻聴。
『 どこの世界に<神>の名を唱える悪魔がいるってのよ、聞くだけで血反吐はいちゃうからやめてよねっ』
ごめん。
*****
悲鳴が聞こえた気がして、私は廃墟の上で体を起こした。
耳をすませてみる。
( きのせい…? )
頭をめぐらせると、どこかからまた悲鳴が聞こえる。
今度はそれに複数の羽ばたきの音と、笑い声が混じった。
声の方角を振り仰ぐと、西の空から地表の森にむけて、白い何かが落ちていった。
いくつかの黒い影が笑い声をあげてそれを追う。
あ、と思った。
最近、中級から上級の悪魔の間では、天使狩りが密かなブームだ。
地上に近いあたりでお勤めに励んでいる下級天使をつかまえて、悪逆非道の限りを尽くす。
たまにそれでゲシュタルト崩壊をおこして天使が悪魔に転生してしまう場合もあるらしく、
それが、彼らにとってはこたえられない興奮を誘うらしい。
そういう気持ち全然わかりません。
きれいなものが、汚される苦痛。
背中がぞわぞわして、冷たい手で胃袋を引き絞られるような痛みが走って、私はにわかに焦った。
憧れの、白い翼。
悲しい叫びが………
気がつくと駆け出していた。
木立をぬけて、空気がざわめいたほうへ急ぐと、
木々の間から一人の天使に群がる4人くらいの悪魔が見えた。
やっぱり、天使狩りだったんだ。
悪魔たちは何れも男性形で、私よりも位が高そうな、屍食鬼のみなさんだった。
女性形の天使さんの白い羽をつかんで笑いながら揺さぶっている。
天使さんの悲しい泣き声。哀願と…。
(折るつもりだ――――――――――――!!!)
ざわっと血が逆流するような痛みに襲われ、
自分で気付いたとき、私は怨キョ魂を彼らに向かって投げつけていた。
(オンキョ - タマ <=怒り、恨みなどのエネルギーを物理的に練り上げ、霊体として丸い形にまとめたもの、
最上キョーコの感情の一部であるためにキョーコの分身体ともいえ、少女のミニチュアがアレゴリーされている>)
一瞬何事かとひるんだ屍食鬼のみなさんが私をふりかえる。
怒りがあふれてとまらない。
「 なんだおまえー……… 」
鼻白んだように、一人が前に出てきて、私を覗き込んだ。
「 淫魔じゃねーか、人のお楽しみを邪魔すんじゃねーよ 」
指でくいっと顎をもちあげられる。
勝負は、一瞬だ。
「 いあーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
噛み千切る勢いで、指に噛み付き、向う脛を思い切り蹴飛ばした。
ひるむ皆さんの隙をついて、なにがなんだかわからないでいる白い天使に抱きつき、
たたんでいた羽を思い切り広げて…飛び立とうとすると…。
「 ……… 甘い―――――――」
屍食鬼のみなさんのかげに隠れて見えなかった、木立に座っていた親玉っぽい人が、
私に向かって手を差し招いた。
羽と体が何か得体の知れない冷気につつまれ、一瞬にして凍りつく。たたらをふんでその場に転ぶと、
われにかえった屍食鬼の皆さんが猛烈に怒り始めた。
「 レイノくーん サーンキュー!! 」
私に齧られた人が、凶悪な顔をして寄ってきて、ころがっている私のわき腹を蹴った。
「 なんだよこの淫魔。この天使がほしかったのか…? 」
「 女同士じゃん 」
「 なに、そーゆーのもしかして流行?」
でもこんな地味な女じゃーこっちの美形と絡ませても時間の無駄で、
おれらーになんらお得なかんじがしねーよなー、と彼らは笑った。
くっ…なんかムカツク!!!
嘲笑いながら、踏みにじられ、蹴られる。
体の下にかばうように抱き込んだ天使と目が合った。とてもきれいな人だった。
気遣わしそうに、恐れるように、私を見ている。
守りたい、守りたいよー。
襟首を掴まれて、引き剥がされそうになり、彼女にしがみついた。
「 うわ、うぜー、この淫魔どうするよ 」
「 はなれねー 」
うんざりしたような声音の、複数の手が私を強い力で引っ張る。
口が届くところに手をおいたら、噛み付いてやろうとギリギリした。
「 レイノ 」
木立から、レイノと呼ばれている親分が立ち上がった。
かたわらに、その腹心っぽい長髪の美形が寄り添う。
親分は、真っ向から私を見た。冷たい目…、感情のない黒い穴みたいな。
この人だけ……他の屍食鬼さんと位がひとつ違う。いわゆる、上級の悪魔さんだ……。
「 俺がもらっておく……… 」
「 レイノくんやさしー 」
また、いいようのない冷気が周囲をとりかこんだ。
決死の覚悟で睨みつけると、親分の唇のはしがにんまりと笑みのかたちにつりあがった。
( おもしろい素材だ )
駄目だ、私とこの人では、位が違いすぎる。
そのうえに、先ほど来、久しぶりに激しく動いたせいで…。
( おなか…すいたよ―――――――――――――――― )
空腹感が殆ど物理的な攻撃みたいに私の胃袋を直撃した。
ごめんなさい、ごめんなさい、助けられそうにありません。
泣きそうになって天使さんを見詰めると、彼女は私の意図を理解したみたいに、少し驚いて、
悲しそうに、やさしくほほえんでくれた。
ごめんなさい、ごめんなさい――――――――――。
つと寄ってきた親分に、いとも簡単に彼女から引き剥がされた、その時―――――――――――――。
天地が震えて、一瞬周囲のネガとポジが逆転した。
激しい衝撃音……耳をつんざく雷鳴。
大きな稲妻が、天から降ってきて、それで―――――――――――。
私は―――――――――――。
気を失った。
*****
「 やあ、目が覚めたかい…? 」
聞き覚えのない声に、がばっと起き上がると、そこは全く見覚えのない家の中だった。
木造りの、どこか東方にある異国を思わす静かな家屋。私は、寝心地のいい寝台に寝かされていた。
何がどうなってこうなっているのかわからない。
混乱したまま、かけられた声の存在を思い出し、気配の方向をはっと見ると…
見たことのない人間の男が私に笑いかけた。
思わず照れてしまうくらいのきれいな顔に、怯む。 ここはどこ、あなたはだれ。
「 ここは越谷(こしがだに)の俺の家だよ、君は、森の中に倒れていたんだ 」
そうだ、てて、天使。 と、屍食鬼…の皆さんは。
あれから、一体? なにが、どうして…。
「 君のほかには、特に誰もいなかったけど……―――――――― 」
聞くと、男は小首をかしげて私を見た。
ひたいにかかる、黒い髪に…黒い目。
その表情に、ふんわり包み込むようなやさし気な色がうかぶ。
そんな目で見られる覚えのない私は、思い切りうろたえた。
…人間の男。
そうだ……これは、人間の男……。
本来の、わたしの、 ご…ごはん……。
…思ったとたん、胃がものすごい爆音をたてた。
「 ………おなか…――――すいてるんだ? 」
男は、ニコニコ笑ったまま、言った。
「 は…――――――――― 」
あまりにもの爆音に恥ずかしく、うつむいてあらぬ方を見、頭をかく。
「 ………食べる……? 」
食べるか、と言われましても、私は地上の食べ物は食べられないものなので、
とにかくどうやら私が悪魔とはわからないらしいこの人間の男に、正体がばれる前に
ここからおいとまをしなくては…と思っていると。
すうっと男の手がのびてきて、私の顎をそっと持ち上げた。
( はえ? )
美貌が、目の前に迫ってくる。 ―――――――――ん?
( ………えっ ? ――――――――え…… えええ!!!??? )
唇を吸われた。
やさしく噛み付くように重ねたまま、男が私に圧し掛かってくる。
そのまま、寝台の上に押し倒された。
驚愕に口をひらくと、男の舌がするりと入ってきて………濃厚なくちづけがはじまった。
「―――――――――――――――!!!!!!!!!!」
眼裏に光がちかちかとひらめいた。体に染みていくような、純度の高い、甘いもの。
香ばしくて、ジューシーな、おいしい……すごく、おいしい。なんて……おいしすぎる。
生まれて初めて食べる、奔流のような……精気。
思わずうっとりしてしまった。
「 ――――――――――――――淫魔なんだろう?………君 」
ひとしきりいかがわしく唇をかわして、男は私から体を浮かせてそう言った。
唇を離される時、あまりにも名残惜しくて、つい、ねだるように見てしまった。
そんな自分が恥ずかしくて、思わず赤くなる。
男は、またにっこりと笑った。
(……って、バレテルーーーーーー!?!?!?!)
驚愕にさぁっと青ざめると、男は私を安心させるように頭を撫でてくれた。
「 大丈夫、きみのことは誰にも言わない。 それより…―――――――ね ? 」
甘い声、甘い吐息。頭の奥がしびれるような。
「 ……… おいしかったかい……? 」
男の指が私の唇をなぞった。
ぴくん、と体が震えた。
美味しかった。この世にあんな美味なものがあるなんて。おいしくて―――――――――――――。
ちくりと胸を良くないものが兆す。
( もっと…ほしい――――――――― )
( もっともっと、食べたい――――――――――――)
淫魔としての本能。思わず強くうなづいてしまった。
名前も知らないこの男に…なぜ。
「 レンだよ 」
その言葉が聞こえたかのように、男は低く囁いた。
「 敦賀…蓮。名前を呼んで、おねだりしてご覧。おなかいっぱい…――食べさせてあげるから」
するり、と、大きな手がすべり、着ていたものの中に潜り込んでくる。
あっ、 そんなところを―――――――っ そんな…。
「―――――――― つるが… さん……っ 」
じんじんする、期待と…欲望に、私は喘いだ。
「 ………いっぱい………食べさせて下さい……――――――ほしい、です……――――」
( わかった )
ああっ
「……そうだ、君の名は……?」
とんでもないところを触りながら、彼は私の耳の中に、甘く囁いた。
「…キョーコ…で、す……最上…―――――――キョー…」
熱に浮かされたようにつぶやくと…。
「 最上さん……か… 」
彼はくちびるで笑った。くすぐったかった。
彼の匂いに包まれて………私は溶けた。
*****
( 蓮、おまえなんてことを―――――――― )
夢うつつの中、誰かの声が聞こえた。
( 百瀬さんから聞いて…あわてて来てみれば。 いくら百瀬さんを助けようと頑張ってたっていっても、
あれは悪魔だろう。 なんでおまえが、あんな悪魔にそんなになるまで――――――――)
ぽかっと目をあける。
生まれて初めて、お腹が減っていない。むしろ清々しいほどの満腹感に、
体の隅々まで悦びがあふれていた。
それで、先ほどまでのお食事タイムを思い出し、ちょっとぽぽっと顔が熱くなる。
( 敦賀さん…… )
何をポイントに思い返したらいいかわからないくらいに、胸がきゅっとなって、しんとなった。
美味しくて、綺麗で、やさしくて………。
……ぜ、絶倫で……。
( でも、………そういえば、なぜ…… )
彼は私に、与えて?
そっと寝台を抜け出して、聞くともなく聞こえた声のした方に歩くと、
引き戸の影から煌く光が漏れていた。
窓の向こうは夜………。
明かりの光とは明らかに異質の、硬質な光。
「……とにかく早々に戻るんだ。こんなところにしばらく隠れ住むなんてとんでもない」
声がはっきりきこえた。敦賀さんの声ではない、怜悧な誰かの。
その人は、私に気付いたようにふと気配を廻らすと…。
引き戸が音もなく静かに開いた。
光が奔流のように溢れた。思わずぎゅっと目をとじてしまう。
手のひらでさえぎるようにして……おそるおそる、薄目をあけて。
そこには。
………輝かしい6対12枚の翼、きらめき流れる金の髪。白く高貴な……それは。
( 大天使―――――――――――――!!! )
そんな美しい存在をこれほど真近にしたのは生まれて初めてだった。
当たり前だ、悪魔の中でも下級の下である淫魔ごとき、
同じ悪魔族の貴族さまあたりにもお目通りがかなったことなんかない私が、
天界の上層に住まうその支配階級、美の化身にお会いする機会なんかあるはずが…。
あわあわと唇をわななかせて、思わず見とれていると…、
彼は、じろり、と私を見た。
「 ――――――――――――驚かさないであげてくださいませんか、社さん 」
静かな声…
さっきまで一緒に熱く溶けていたひとの。
( 敦賀さん… )
思わず目で彼を探す。
人の姿なんかみあたらなくて、いぶかしくキョロキョロすると、
こっち、と指にさしまねかれた。
大天使の向こう…、目に入らなかったのは、あまりにも神々しくて。
そこにはもうひとつ、輝く光の渦がいた。
同じく12枚の黄金の翼。周囲の闇をはらい、煌々と照らす、白金の髪。
しどけなく開いた胸元の…着乱れた服と、美貌だけは先ほどのままの。
「 おはよう(夜だけど) 」
敦賀さんはにっこりと笑った。
ふうっと意識が飛びそうになった。
だだだだ、だいてんし、それもこのひとってば
( 熾天使だーーーーーーーー!!!! )
「 君があんまりにも美味しそうに…食べるから 」
あわあわと魂が右往左往している私を知ってか知らずか、
ぽっと敦賀さんの頬が薔薇色に染まった。
「 たくさんあげすぎて、人間の姿を保てなくなってしまった……」
椅子を立って、こちらに歩いてくる…優雅な身のこなし。
馬鹿みたいに口をあけたまま、私はそれを見守った。
「 この、くいしんぼうさん…っ 」
彼は長くてかたちのよい指でからかうように私のひたいをつついた。
魂が抜けた。
*****